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ありがとう。うれしかった。
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赤ちゃんの名前 |
友陽 (ともはる) |
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お母さんの名前 |
良子 |
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お父さんの名前 |
雅彦 |
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産まれた日時 |
2007年3月2日 |
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出生体重 |
2708グラム |
初めて押尾先生を訪ねに行ったのは5年ほど前のことだ。いわゆる不妊相談だった。今できる事はこれとこれとこれね。と説明してくださり、帰りがけには、あなたなら妊娠するとはげましてくれた。また、気持ちが分からなくなったら来なさいね。と言われて帰ったこともある。
それからしばらくして、気がつくとなでしこのスタッフになっていた。毎日先生の机の隣で保険の取り扱いから電話の応答、超音波や通訳のアレンジなどなど、なでしこでの仕事は多枝にわたりとても楽しかった。でも、一番楽しかったのは先生が話して聞かせてくれるお産の話や犬や猫の話だったり、患者さんとのふれあいだった。ほとんどの患者さんの顔と名前が一致するような環境の中で働けたことはこの上ない幸せだった。妊娠はしないまま時はどんどん過ぎていく、時にはあせってみたり、急に悲しい気持ちになったりもしたけど、そのうちには不妊症であることを全面的に受け入れてしまっていた。押尾先生ともそろそろ、不妊治療を本格的に開始しようね。と平常心で話せるようになっていた。困難なことを受け入れるというのはその問題を解決する最初で最大の一歩であるように思える。あのころ私は不妊症だったけど、結婚してから一番楽しい時間を過ごしていると肌で感じていた。
そんな不妊症との付き合いも急におわりを告げることになる。2006年7月7日七夕の日、体の変化に気づいて家庭でできる妊娠検査で検査をしてみると妊娠していたのである。この日押尾先生は10年ぶりに日本に一週間だけ帰国していた。いつもは隣にいる先生がこんなときに限って日本だ。帰ってきたら一番に報告しよう。電話よりは口で直接伝えたかった。日本から帰ってきた先生はいつもどおり、何事もなかったようになでしこにやってきた。妊娠したことを告げると先生は目を真ん丸く開けて驚き、Hugをして喜んでくれた。
Center for Women’s Healthで最初の超音波をすぐにとった。子宮の中でもぞもぞと小さいけど力強く動いている心臓を確認できたときは安心と喜びが同時に襲い掛かってきた。だが、それだけでは終わらなかった。しばらくすると超音波の技師さんから、「本当に膀胱は空なの?」ときかれ、「はい、さっきトイレに行ったばっかりです。」と答えるも信じてもらえてない様子。しばらくすると「これは膀胱ではなくてとっても大きな嚢胞ですね。今ドクターを呼ぶのでこのまま待っていてください」といわれる。嚢胞があるなんて言われたのは初めてだったので、最初はわけが分からずにドキドキしていた。しばらくしてドクターが入ってきて超音波の映像をみて、「これは大きな嚢胞ですね。でも、私は以前にこんなのを見たことがあるし、大丈夫ですよ。ただ、悪性の癌ではないことを確認する血液検査をしておきましょうね。それと内視鏡手術をしてくださる先生を紹介しておくので一度会っておいてください。」といわれる。
内視鏡手術??癌??一度に飲み込むには多すぎる情報だった。ようするに、悪性の癌であった場合は悲しいけれど、赤ちゃんを断念して癌治療に専念し、悪性の癌でなければ麻酔がかけられるようになる妊娠12週を待って内視鏡手術をしましょうということだった。内視鏡手術なんてとっても恐ろしいと感じ本当にやらなくてはいけないの?と真実を飲み込めないまま、1週間後、3週間後に超音波を次々にとって、嚢胞の様子をうかがった。8週目の超音波の所見で嚢胞が小さくなり始めていることがわかり、内視鏡手術は回避された。と安心したのもつかのま、今度は子宮頸管が短いかもしれない、赤ちゃんの脳に障害があるかもしれない、左の腎臓が右の腎臓より少し大きいので異常があるのかもしれない
、と次々に疑いをかけられ、合計で8回もの超音波を受けることにる。
すべての疑惑が晴れて赤ちゃんは順調に育ってますよ、と言われた時はすでに妊娠31週目になっていた。あまりにも次から次へと問題が浮上してくるので毎回押尾先生が超音波についてきてくださるようになった。ありがたい気持ちでいっぱいだった。
妊娠36週を過ぎると気もそぞろになってくる。いつ私のお産になるんだろう?私の場合はどうやって陣痛が始まるんだろう?等々。Fall
Cityの自宅にいるよりもなでしこで働いている方がずっと安全ということで最後の最後までなでしこで働かせていただいた。昼食後には必ず、1時間の散歩。金曜日はBellevue
Aquatic CenterでDeep Water Exerciseに通わせていただきながら。お友達になった患者さんからは次々と使いきれなかったおむつや、もう使っていない赤ちゃんのバスタブ、スウィング、赤ちゃん服などなどたくさんいただいた。役得とはいえ、とてもうれしかった。この場をお借りして、皆さんにお礼を言いたい。ありがとう。助かりました。何をどう取ってもなでしこで働きながら妊娠するというのはとても贅沢で最高に恵まれた環境だった。
ちょうど39週目の3月2日の金曜日。普通になでしこに出勤するために朝の支度をはじめようと台所に行って主人のお弁当箱をキャビネットから取り出したときだった。「ずーん」とした、はっきりとした痛みを感じる。無意識に時計をみて時間の確認をする。7時半だ。そっぉかぁ今日のお昼には入院で今晩には赤ちゃんに会えるんだ。嬉しさがこみあげてくる。トイレに行っておしるしを確認してから先生に連絡。先生からは我が家がFall
CityでKirkland にあるEvergreen
Hospitalからちょっと遠いのでKirklandにあるなでしこクリニックでだんなと朝から待機するように指示がある。朝の渋滞を家でやり過ごしてから移動したいと思ったのと、最後の入院の準備をしたかったので、急いで家を飛び出すこともなく、洗濯したり、CDを選んだり、ゆで卵を作ったり、本当に普段道理、焦るでもなく、準備をしていた。
ただ、陣痛の間隔がおかしかった。本来なら5分間隔になるのに数時間かかって、それから3分間隔になって、それでは、ということで病院に行くはずなのに、私の場合、最初からかなり強い陣痛がはっきりときていて、その間隔はみるみるうちに狭まって行った。8時半すぎには5分どころではなく、3分間隔の時もちらほらではじめ、しまいには一息ついただけ
で次の陣痛が押し寄せてくるようになった。しかもいきみたい気持ちにさえなってしまった。これはまずい!とようやくことの次第を飲み込み先生に連絡。時間は9時10分過ぎ。朝の渋滞の真っただ中か少し終わりかけぐらいだ。まずいよ〜〜〜。先生からはそれでは直接Evergreen
Hospitalに行きなさいと指示される。
車の助手席に座ってもなお襲ってくる陣痛。陣痛よ、あっちいけ!と念じたり、無視してみようなどといろいろ試みたが襲ってくるものは襲ってくる。痛い。それになによりやばい。Freewayでお産だけは避けなくてはいけない。こんなところで産まれちゃ困る。
車が動き出すと苦しかったけど目を開けて、周りの状況を必至になって頭にインプットした。そして、頭に言い聞かせていた。「ね。こんなところでお産なんてできないでしょ。だから陣痛はまだ、駄目よ」と。奇跡的に45分間の移動時間に陣痛は2回来ただけだった。念じていたのが功を奏した様子だった。病院のターミナルでは押尾先生が車いすを用意して待っていてくださっているのが車の中から見えた。「あっ先生だ。」そう思った瞬間にはもう陣痛が来ていた。
本来なら病室に入る前にいろんな紙にサインをするのだが、私はそのまま病室へ。病室はまだ、誰もいなくて、ガラーンとしていた。「靴脱いで、靴下ぬいでね。それから、、、」とテキパキと指示をしてくれる先生。言われたとおりにしたかったけど襲ってくる陣痛には勝てず、ベッドに自分で這い上がるのが精いっぱいだった。無事に病院のベッドに横になり「いきんでいいわよ」と先生に言われた時は「ほっ」と一安心した。「今、いきんでいいよって言ったよね。」などと確認までしてしまった。
体を右手を下にして横になり、左手で自分の左足を持ちながら何回か陣痛の度にいきんでみる。「ここに赤ちゃんを押し当てる感じよ。」といって会陰マッサージで柔らかくしておいたところを何度も教えてもらう。最初はいきみのタイミングと呼吸のタイミングを間違えていて、それでは赤ちゃんが苦しいわよ。といわれる。まずは息を吸ってからね。と。
そうかぁぁではこれは?と思いヨガ風に息を思いっきり吸って吐くときにゆっくりといきんでみたところ、「いいよ、今のすごくいい」と褒められた。そうぉかぁこれでいいのか。ということで後はずっと同じようにいきむことに決めた。途中で先生が私の足がとっても冷たくなっていることに気付いてベッドの上で足湯をしてくださった。足湯をして温めた足には前もって用意しておいたふさふさの靴下をはかしてくれた。
陣痛の合間になでしこの患者さんで2日前に赤ちゃんを産んだばかりの友達が生まれたての赤ちゃんを抱えて応援に駆けつけてくれた。彼女の顔はとてもうれしそうで、喜びに充ち溢れていた。そして、「私にもできたんだから良子さんにもできるよ」と励ましてくれた。しばらく同じ体制でいきんでいたが、先生の指導で、ベッドの横に立っていきんでみようということになった。先生に「赤ちゃんが降りてきている感じする?」と聞かれる。「いいえ」と答える。そうなのだ、せっかく生める状況になったのに赤ちゃんはなかなか下りてこようとしないのである。先生が様子を伺わせてね。といって内診をしてくださる。特に問題はなかった様子だった。
しばらくすると「じゃぁ、座ってみよう」といってクリニックから持ってきた座ってお産ができるという椅子のようなものに座ることになった。実はこの椅子でお産をするのは私が最初である。座ってお産をしたいと希望していた患者さんのためにオーダーしたのだが、その患者さんには間に合わなくて、今回初の出番となったのである。旦那に体を支えてもらい、その椅子に座っていきんだ。息を深く吸って吐くときにゆっくりいきむ。何回か陣痛をやり過ごしているうちに左の足がしびれてきてしまったので一度立ってしびれを直してからもう一度座りなおす。
赤ちゃんを受け取る時に手が滑らないようにと白い布の手袋を先生に渡されてつけるように言われる。とにかく陣痛のピークは痛い。いきむどころか痛みに飲み込まれてしまいそうになる。陣痛が来るたびにこの陣痛のピークの前に生みたい。そう願って思いっきりいきんでみる。一度は陣痛のない時にもいきんでみたりもしたけど、それは全く意味がなかった。
すると誰もが一番痛がるといわれている最後の痛みがやってきた。それは陣痛の痛みではなく、赤ちゃんが出てくるときの痛みのように感じた。痛かった。でも、陣痛の痛さより希望が見える痛みだった。心の中で「うりちゃん!」と叫ぶ。うりちゃんとは赤ちゃんのいのししの愛称で、いのしし年のだんなといのしし年の息子なので、おなかの中にいる時は赤ちゃんのことを「うりちゃん」と呼んでいた。
「うりちゃん。うりちゃん」と叫んでいると「落とさないでよ。」という先生の声と同時になにやら海苔のような大きな黒い塊を椅子の下から渡された。これは息子の頭だった。手では赤ちゃんを抱いているという感覚があるのに、これが今私のお腹の中から出てきたものなのだという感覚はさっぱりなかった。とても不思議だった。こんなに完全な人間がお腹の中で育っていたんだ。妊娠しているということはそういうことだったんだ。とあとから少しずつ実感したのだった。
へその緒に注意しながら一度「うりちゃん」をお腹のあたりで抱き、その間に看護婦さんに軽く「うりちゃん」を拭いてもらう。そのあとゆっくりと用意しておいたお湯に「うりちゃん」を肩までいれてあげた。こうすることで生まれたての赤ちゃんは再び子宮の羊水のなかで浮いているのと同じ感覚になり、赤ちゃんの負担を減らしてあげることができるのだ。お湯につかった「うりちゃん」は物音一つも立てずに、気持ち良さそうに一つずつ目をゆっくりと開けて、周りの様子をそうっとうかがっているようだった。子宮の中に比べると外はとっても明るい。生まれたての赤ちゃんがまぶして驚くことがないように部屋の電気もなるべく薄暗くしていただいた。こうして「うりちゃん」は生まれた。
7時半に始まった陣痛から実にたった5時間のお産だった。家から病院までの移動の問題を取り除けばこれ以上にない安産だった。
問題が浮上してきたのはそのあとだった。赤ちゃんの血液が濃すぎるので治療が必要になってしまったのである。血液を薄めるための処置がとられたあと、黄疸の予防のために光線療法がはじまった。光線療法だけは避けたいとずっと思っていたのに、とても残念だった。
4日間に及ぶ光線療法中はいろんな困難が待ち構えていた。まずは母乳の確立だ。お産の後、母乳が自然とたくさん出始める人は運のいい人だ。私や多くの場合は母乳が本格的に出始めるのは出産後しばらく時間がかかる。その間出ないお乳を出ると信じて赤ちゃんに吸い続けさせるのはただでさえつらい作業だ。でも出ないからと言って吸わせないと出るようにはならない。だからたくさんたくさん子供に吸ってもらうことは母乳を出すにはとても大切なのだ。
でも、光線療法中はそれが制限させる。3時間に15分〜20分程度すってもらったのでは母乳の確立に良い条件とは言い難い。病院の母乳に対する考え方は私が望んでいたものとは少し違っていた。病院では母乳が足りないのなら粉ミルクを足せば用は足りるといった態度だった。私は母乳が足りないなら出るようにしてもらいたかったのに。この考えの違いによる壁は大きく、とても辛い思いをすることになる。私がこんなことになってしまったと押尾先生に連絡するたびに先生は「今、病院にいくから」といって飛んできてくれた。そして、涙にあけくれる私のおっぱいを力強くマッサージし、乳首にちょこんとたまる母乳一滴一滴をシリンジで集めてくれた。このころ私の母乳は5_集めるのに0.2_にも及ばない一滴一滴をかき集めなくてはいけないほどしかでてなかったのである。この一滴一滴の尊さを先生は誰よりもよく知っていた。そして、「いいおっぱいだよ。ここまで来たらあとは早いよ」といつも、いつも励まし続けてくれた。子供に吸ってもらった後は搾乳機による搾乳、手による搾乳、そして、おっぱいを暖めて水をたくさん飲んでなるべく寝る。といったサイクルを3時間ごとにただただ無心で繰り返した。この間、押尾先生は時間を見つけては病院まで来て母乳マッサージをしてくださった。
入院して5日目にやっと母乳がでるようになった。子供の黄疸もなくなり、ようやっと退院できた6日目には、母乳は確実に確立されていた。あの苦しい条件の中で母乳を確立できたのは奇跡だったと今でも思う。先生の母乳への正しい知識と理解、そして何より心遣いがなかったら母乳の確立はもっと困難を強いられていたであろう。入院中は押尾先生をはじめとして、なでしこクリニックを通して知り合った方々や友達からたくさんの励ましの言葉や差し入れをいただいた。こんなに友達がありがたいと思ったのは本当に久しぶりだった。友達が来ると病室に笑いが起こる。この笑いこそが、本当の友情の証しなんだとしみじみ感じた。
お腹の中では「うりちゃん」だったわが息子は友陽(ともはる)となづけた。いつまでも友達とともに、光のあるなかを歩めるようにと願いを込めて。
お世話になった押尾先生、なでしこのスタッフや患者さん。本当にありがとうございました。

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