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お産体験記 2007年8月掲載

葉君の妊娠出産・産後の記録

お母さんの名前

Chigusa Kitai    北井 千種

お父さんの名前

Jae Cho

赤ちゃんの名前

Rhen Cho-Kitai 北井 レン

予定日

March 13th, 2006

生まれた日と時間

7:30 pm, March 5th, 2006

出生体重

3,400 g

 今日は、2007年1月6日土曜日。息子レンが10ヶ月になった。もうすぐ1歳だ。レンが1歳になる前に、お産の日から1年経つ前に「お産リレーノート」に私も一筆献上したく、今日ペンを執った。これから出産されるお母さんたちのお役に立てるかしら。とにかく、書き始めてみる。

 2月の末で仕事を切り上げ、ほんのちょっとの産休、でも、その間に誰か他の人が気持ち良く私のデスクとコンピューターを使えるようにと整頓しオフィスを出た。その後幾日かは、たまの休日を楽しんだような気がするが、あまり覚えていない。友達が遊びに来てくれたような、あ、ランチに出かけたなぁ。そして、破水!と思い先生に報告。だが、その後、何の音沙汰もなく、今にして思えば、あれは、尿漏れ!?そうこうしているうちに、予定日が近づいてきた。私は、生理不順のため予定日がはっきりと割り出せず、妊娠が判ってから比較的早い時期に超音波検査をしている。その時にもらった予定日は3月13日。最終月経から割り出したものが、3月4日。また、妊娠20週目の時の超音波検査の結果では、3月6日と言われていた。まぁ、3月初めかなぁといった感じの予定日だった。

 妊娠中は、みんなに色々と聞かれるのも楽しくて、嬉しくて、今思えば、それって妊婦の幸せ。仕事先でも、フラメンコ教室でも行く先々で、身重には見えないわー、と言われて驚かれるのもおもしろく、大きくなるお腹は愛しく、ほんとに幸せだったなぁー。自分のデスクで忙しく仕事に励んでいるときも、お腹をケリケリされてるのが楽しくて、トイレに行くたびにお腹に語りかけたりしていた。トイレから出掛けには自分の姿を鏡に写しては横からお腹を眺めたりとか。

 と、たのしー記憶でいっぱいな妊娠期間、ジェイに(レンのパパ)にしてみれば地獄だったらしい。先日夫婦ゲンカのあと二人目の子供(私たちは仮に不仁子ちゃんと呼んでいる)の話をしたら、僕はトラウマがあるから不仁子ちゃんを持てるかどうかはわからない、と発言されてしまった。意地悪で言ったの半分、本気半分といったところだろうか。Selective Memoryってこういうことだろうか。悪阻や浮腫みや肋骨の関節炎などで苦しんだはずなのに、そういったことの記憶はもうすでに遠のいてきている。

 さて、話をお産に戻してー。

 3月4日、えっと、これはそうだ土曜日。ジェイが家にいたという事を覚えている。下着に出血の跡を発見。先生に電話をする。お昼くらいだった。もしかしたら、もうすぐお産かもしれないということで、仕度を始めた。テクテク歩いて、近所のQFCに行き、入院中、またお産の最中に必要と思われるものを購入。病院の食事じゃヘルシーじゃないからと、ジェイにヨーグルトやフルーツを買った。病院のカフェの不健康なものジェイが食べないようにジェイのものを買いに歩いて行ったんだよ、あたし。ジェイはその間ずっと家で寝ていた気がする。(お産リレーノートはご主人側から見たお産って言うのも書いてもらうと、おもしろういかもしれませんね。)その後、2度に亘り、ご飯を炊き、お菓子の空き箱いっぱいにオニギリを作る。味は2種類。病院は暖かかったせいか1種類の方は悪くなっちゃった。

 夜10時頃、お腹が痛くなり始めた。間隔は短くなっていったし、すごく痛いときもあったけれど、今思うと本当はもっと激しいのが来るものなのかしらねー。なんだかよくわからなかったけれど、わからないまま先生に何度か電話し(せかしちゃったかな)、午前3時頃に着くように病院に行くようにと指示をもらった。ジェイを起こし用意してあった荷物と食料を車に載せてもらい、最後にレンタルしてあったAqua Doulaを車に詰め込む。アクアなんたらとは、空気を入れて使う子供用プールのようなものの大型版で水中での出産に使えるようデザインされたものだ。なにしろ始めてのお産、知らないことだらけだけれど知ったからには何でもトライしてみよう(あとで、使っておけばーと後悔しないようにね)ということで借りてみた。巨大な箱に入ってくるので、うちの車に入れるのは、とっても大変そうだった(ありがとう、ジェイ)。しかも重い。妊婦さんには運べません。荷物を満載し、いざ出陣。おーっ、そういえば、あの日、あの夜、助手席に座ったのを最後に、私は後部座席に移りました。

 渋滞にもあわず、病院に到着。意外に慌てるジェイ。最初にあてがわれた部屋が小さいとのことで、Aqua Doulaをしょいこんだ私たちは広い部屋に通された。看護婦さんがやってきて、山ほどある書類に次から次へとサインさせられる。看護婦さんは、あなたノタウチマワッテなくて、まだ正気だから、さっさとサインしてもらえて助かるわー、と褒められる。そんなこんなしてて祥子先生到着。ジェイは、Aqua Doulaと大奮闘(準備大変なんだよー)。なんだか色々していたら今度はHuman Doulaのまり子さん登場。さぁ、全員揃って、いよいよお産。

 出掛けに2匹の猫たちに、「お母さんたち行って来るからねー。でもすぐ帰ってくるからねー。心配しないでねー。えっと、6時間以内に赤ちゃん産んで、遅くても明日の朝には絶対戻れるよー。」などと告げた浅はかな私。午前3時に病院に着いて、出産が同日の午後7時過ぎ、退院したのは、その後なんと48時間後だった。安産とばかり信じていた私。陣痛が進むようにと先生、まり子さん、ジェイと3人に代わる代わるエスコートされて歩く歩く。バースセンターの中を歩く歩く。グリーンレイクを3周はしたかと思われるほど歩き、マタニティーヨガをひたすら試み、それでも陣痛は強くなっていかない。促進剤を投与。なかなか強くならない。さらなる投与。うーん、強まってきた。と、今度は腰に激痛が走る。どうやら赤ちゃんの頭が腰に当ってー、と先生の本に書いてあった、アレ、らしい。うまく頭が回転してくれるようにと体操を続ける。それでも、どうしも腰から痛みが離れない。到着時の子宮口の開きは2.5センチだったかなぁ。それが、なかなか広がっていってくれない。なんだか、赤ちゃんはまだ出たくないって言ってるのかなぁ。疲れも出てきて意識が朦朧としてくる。ジェイが用意してくれたAqua Doulaへと先生が誘導してくれた。入ってはみたけれど、くつろいでいる場合なんかじゃない。(ちなみに、Evergreen Hospitalでは水中出産は許可されていませんでした)痛みは腰から去ることもなく、それまでよりも強く腰に激痛が走る。もうこのとき覚えているのは「痛い、痛い」と訴える私の声と、「痛いねぇ、痛いねぇ」「でも、もうちょっと我慢しようねぇ」という先生の声、腰を押してくれたまり子さんの手、あ、 ジェイが柄杓で肩にお湯かけてくれていた。「もうあと1回」「あと1回」と陣痛が来るたびに、先生にもう少し待とうねぇ、とお湯の中で待っているように励まされる。1度出たらもう入れないからって。

 みんなに支えられて湯から上がり、なんとかベッドへ移動。エピドゥラルを打ってくれる麻酔科の先生が到着。激痛にもだえ、もだえ、でも体を曲げたまま、じっとしていなくてはいけないと言われ、なんとか動かずに耐える。その後はベッドに寝たっきりさぁ。何しろ下半身が麻痺状態だもんね。子宮口は6センチくらい開いていたかなぁ。そこから大変な思いをしたのはドゥーラのまり子さん、先生、 そしてジェイ。横向きになってベッドに寝ている私の腰をユッサユッサと揺らし続けること数時間。根っからの:

こで、レンが起きる。その後、今日まで断筆。そして本日2007年8月23日(金)執筆再開。:

そう、根っからのサービスマンのジェイは、祥子先生とまり子さんに飲み物はいらないかとオーダーを取り病室から遠く離れたカフェテリアへ、分娩中の妻を残して一路旅立つ(なにしろ、買い食いが好きなの)。もう記憶がどんどん薄れてきてしまったけれど、どうだったかな、その後。3人のチームワークと私の念力 で、子宮口が開きつつあったのだけれど、そうだそうだ、私が発熱したんだった。熱は結構高く100度ちょっと。100何度だかを超えると病院の方針で帝王切開となるらしい。絶対に避けたかった帝王切開。先生がオマジナイにといって氷嚢を両脇の下に挟んでくれる。担当の看護婦さんが解熱剤を点滴してくれる。熱が下がり始め、第一次帝王切開危機から免れる。その後は、なんだかタイムリミットか何かがあって、再び帝王切開の危機にあう。ギリギリのところで子宮口 の開きが10センチとなり、「She is complete.」みたいなことを先生が担当の看護婦につげる。祥子先生が病院のユニフォームに着替え手袋をはめて戻り、どやどやと看護婦たちが機械みたいなものを持って病室に入ってきた。急に賑やかになった病室。いきんでみていたものの一向に赤ちゃんは出てこない。またもやなんだかタイムリミットのようなものがあって、「7時半までに出てこなかったら、吸引分娩をしましょう」と告げられる。それがだめなら、と第2時帝王切開危機。妊娠後期に読んだ本の中に赤ちゃんが狭い産道を通ってくるのは大切、みたいなことがあったし、また、どうしても、赤ちゃんの力でお腹から出させてあげたかった。その手伝いをし たかった。大きな鏡があるけれど、鏡を見ながらプッシュしてみてはと勧められ鏡を見てみると、あるある、赤ちゃんの頭が見えていた。頭を見ながら、うぅぅぅんと、再度プッシュ。出た!大きく前進。一気に広がった。これで行ける!先生がシーツを鉄棒のようなものに巻きつけてプッシュするときに引っ張るものを作ってくれる。それを両手でつかみながら、体を丸めて、ひとつ、ふたつ、と2回続けてプーッシュ。先生が赤ちゃんの頭をクリクリと、まるで、型からゼリーを出すときに回りにナイフを入れてクルリとするように、出やすくしている。「あーっ」まり子さんが私の腕につながっている点滴の袋のぶら下がった棒につまずくやいなや、ぼろっ、と赤ちゃんの頭が出た。わたし、びっくりして、ゆーっくりプッシュしていたのが、ブッとやってしまったらしい。

  そこからは、なんだか、わからないうちにアレヨアレヨの間に事が運んだ。赤ちゃんの体が見えるや否や、先生が赤ちゃんをお腹に乗せてくれた。その後、ちょっと抱っこし た。がんばったね、がんばったね、と告げた。それから、赤ちゃんは手早く看護婦さんたちのもとで何やら色々と施され、またまた、アレヨアレヨという間に部屋からいなくなった。先生の説明では、もうすぐ出てくるってときに赤ちゃんの鼓動が止まっていたらしい。赤ちゃんのものと思ってとっていた心拍は実は私のもので(赤ちゃんの心拍数のように早かった、130とかかな)、そのことに先生が気づいたものの、赤ちゃんの心拍を探してー、と先生が看護婦に言う間もなくレンは飛び出していた。飛び出した後すぐに蘇生したものの仮死状態で生まれたので、レンは小児科へと移動。お父さんは一緒に行ってらっしゃいと促され、ジェイはレンの後を追った。先生は、胎盤を取り出し「あらー」、胎盤はとても老朽化していたらしい。どのくらい古くなっていたかというと、糖尿病の人のものみたいとか、妊娠42週だか、なんだか、そんなことだったかしら。この辺は、もう覚えていない。レンは大丈夫かしらと心配して先生に聞くと、すぐに蘇生したし、ヴァイタリティー指数みたいのが3か何かから、ひとっ跳びに8だかになったから大丈夫とのこと。それから、先生は、お願いしてあったstem cellの保存のために、Via Cordのキットで私の血液を採取。もちろん、レンの臍の緒も。あれ、臍の緒そのものか中の血液かしら。その血液の採取が、こりゃまた痛かった。我慢しようね、でも、今取らなくちゃ、と先生になだめられ、なんとか痛みに耐える。先生と他の医師が見事に裂けたらしいレンがたった今通ってきた道を修復。医師が どの程度の裂け具合かを説明してくれた。その説明によると、もっと酷い避け方もあるらしいから怖かった。縫合してくれていた医師の手が血でベタベタしていたけれど、そんなことは、気にもならない。縫合中、病室は和やかな雰囲気で会話が弾んだ。祥子先生に難産だったのかと聞くと、難産よー、との解答。1から10の評価でどのくらいの難産だったかと聞くと6か7との返答。縫合が終わりジェイが小児科病棟から戻ってきて、沢山の写真を見せてくれた。何しろレンの 顔なんて見てる暇なかったでしょ、だから、その写真が初めての対面。Evergreen Hospitalのヘンテコリンな毛糸帽子をかぶされて眩しいほどの明かりの中、ベロを出した愛嬌あるレンの顔があった。ジェイが可愛いって言っていたけれど、私の最初の印象は、「こんなもんかね」といったところ。可愛い、って言ってるジェイに乗せられて、まり子さんは「かわいいっ」と叫び、先生も「この子は、なかなか可愛いかも」などと言い出す。一同、オニギリを食べ、お茶を飲み、和やかな雰囲気でお産が終わる。程なくレンが戻る。

 レンが戻ってから、何したかな。すぐにオッパイをあげたのだと思う。看護婦さんも入れ替わり、その人に指導されてオッパイあげたような。先生とまり子さんは、帰宅。看護婦さんが二人やってきてトイレに連れて行ってくれて、傷の手当ての仕方を教えてくれた。また別の看護婦さんに交代。レンの体が冷えないように素肌に直接触れるように抱っこするように教えてくれた。レンも私もChorioの疑いがあるので(分娩中の発熱は陣痛促進剤の投与の副作用かもしれないし、羊水の感染症かもしれない、だから、万が一の場合に)という理由で抗生物質を点滴されていた。点滴の管の通った小さな小さなレンの手は本当に痛々しく、その点滴の管が刺さった状態で頭からかぶらなくてはならないピッタリとしたT シャツを着せようとする看護婦さんに「着せないで」って言ったら、ちょっと嫌な顔された。その人は丁寧で親切だったけれど。その人がレンを人生初めてのお風呂に入れてくれた。点滴の針が刺さっている手の甲が痛くて痛くて、あんまり痛いので一度はずしてもらえないかと頼むと看護婦詰め所みたいなところに戻って他の人に聞いてくれたみたいだけれど、私の場合浮腫みが酷くて、またちゃんと管を通すのは大変だから外せないと断られた。自分のが痛いのを考えるとレンの手も随分と痛いだろうと、とても心配になり、レンの点滴も早くやめてくれとお願いした。母子で点滴の苦痛に耐え忍び一晩のりきる。別の看護婦がやってきた。何人もの看護婦が代わる代わるやってきた。退院の日に来た人、カカトからの血液採取をやったことがなかったらしく、他の看護婦と連れ立ってやってきた。あなたたちはラッキーよぉ、この人にやってもらえてー、などと言っていたけれど、経験ある風の人も下手だった。調子よくやってきた割には、レンのこと散々泣かせて去ってゆき、私がシャワーを浴びている間に戻ってきて、また血液採取だか何だかをやり始めた様子。激しく泣くレン。腹が立ってきて、私は手厳しく対応する。もういい加減にしてくれ、放っといてくれ。出産後は、次から次へと病室に人がやってきて、ヴァイタリティーのチェックだかなんだかといって3時間おきだかにレンの体温を測り、血圧を測る。その度に泣くレン。注射だか、カカトからの血液採取だか。聴覚の検査(この人は穏やかだった)をする人が 来たりと騒がしい。なんだか、看護婦さんのような人が一人で寝静まった頃やってきて、何のためなのか良くわからない血液採取をしていった。その人は、上手だった。翌日は、友人たちが何人か夜のうちに来てくれたはずだけれど、もう、何が起こってから次に何が起こったかといったことは覚えていない。ただただ、目まぐるしかった。ホォっとできたのは、先生が戻って来たとき。手編みの帽子をもらい、どうやってオクルミしてあげるのか(swaddle)を教えてくれた。ドーナツみたいな形の空気座布団の使い方も教えてくれた。小児科の先生からオッケーが出てレンは出発準備完了。祥子先生からの許可も出て、私も出発準備完了。出発までの時間、オクルミに身を包み、先生の手編みの青い帽子を被ったレンの穏やかな顔はこの上なく美しかった。

 あとがき:
 友達がお金を出し合って買ってくれたベビーシートにレンを乗せ帰宅。思い返してみると、最初の1週間、1ヶ月、大変だったなぁ。色々あった。オッパイは出ない、黄疸は激しく出る、緊急入院はさせられる、ジェイと喧嘩はする。でも、ここまで来れたのは、みんなの協力があったから。子供は親がいれば成長していくのではないよね。みんなが必要なの。私のお産は予想が外れて難産だったけれど、見事なチームワークで無事終了。メンバーは、レン、私、先生、まり子さん、病院のスタッフ、そしてジェイ。母乳育児のスタートを助けてくれたのは、なでしこの押尾先生、通子さん、オッパイマスターの直美さん、鍼灸士の角谷先生、力強く吸い続けたレン。良いチームに巡り会えて困難を乗り越えられた。産後しばらくの間は、軽いトラウマがあり、お産のことに触れないようにしていた。後悔することがあり、病院の施設、方針に対しての不信感、医療に対しての疑問もあった。不仁子ちゃんの出産のときはどうしたものやらといった不安もあった。いや、今でもある。お産リレーノートを書き始めるまでに、10ヶ月間要した。それから再度書き始めるまでに8ヶ月空いた。でも、お産自体は、決して辛い経験ではなかった。助けくださいと言うことを学ぶ機会だった。沢山の人に支えられていることを気づき、感謝する切っ掛けだった。ジェイとの新しい関係の始まりだった。レンの旅立ちの第一歩だった。レンとの分離であり出会いでもあったなどと、センチメンタルに思ったりもするけれど。まぁ、いいよね、意味なんて考えなくて。ね、祥子先生。
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